So-net無料ブログ作成
検索選択
ノンフィクション ブログトップ
- | 次の10件

キャッシュカードは鉄人28号のリモコンだ。 [ノンフィクション]

 好き嫌いは別として、現在の生活を営む上で欠かすことができなくなってしまったキャッシュカードとクレジットカード。しかしこのカードを見るたび、私はなぜかアニメの鉄人28号の主題歌を想い出してしまうのです。みなさん、あの歌の歌詞を覚えてますか? 

「あーる時は、正義の味方。あーる時は、悪魔の手先。いいも悪いもリモコン次第……」

 そんなアホな(笑)と思わずのけぞってしまいますが、鉄人のリモコンをめぐる攻防というこのいい加減さが確かにあのアニメの面白さの特徴でありました。

 しかし鉄人のリモコンを笑ってばかりもいられない。柳田邦夫「キャッシュカードがあぶない」(文藝春秋)を読むと、日本の銀行が発行しているキャッシュカードなるものが、ほとんどあの主題歌で謳われているような存在であることが確認でき、唖然とさせられてしまいます。

 もともと金融カードというシステムそのものに、問題があると私も昔から疑問を抱いてきました。とくにクレジットカードが大嫌い。暗証番号もなにも搭載せず、単にカード番号とカード期限と氏名を記すだけで買い物ができてしまうなんて、危険以外のなにものでもありません。インターネット上でクレジットカードの不正購入事件が相次いで発生することなど、当然の理だと私は思います。けれども、本書でキャッシュカード事件に対する銀行の対応を知ってしまうと、クレジットカードはむしろ安全なモノに思えてしまうから不思議。もし当人に身の覚えのない買い物がされていれば、カード会社は真摯に対応してくれますし、異常なキャシングをした人には即刻調査するという(アナログ的ではあるけれど)セキュリティシステムが確立されているからです。

 これに対して、キャッシュカードの場合はどうでしょうか? 老後資金としてためていた3,000万円を偽造キャッシュカードによって全額だまし取られたAさんも、キャッシュカードの盗難によってやはり全額を引き落とされたBさんも、銀行の対応も冷ややかなものばかり。カードの管理は顧客の「自己責任」であり、それによって生じたトラブルに対して銀行は一切責任を負えないというのです。警察に至っては、法律に正確に照らし合わせて考えると、お金を取られた被害者は銀行ということになり、あなたが主張できるのはブラスチックカード一枚の紛失届に過ぎないのだとか……。(銀行は一銭も損してないのだから、被害届けを出すわけがない!!)

 21世紀のコンピュータ社会において、このような前近代的な考え方をしている人々が存在していることにビックリ。そんな彼らに私たちが大切なお金を預けてきたという事実に気付いて、再度ビックリ。しかし驚いてばかりはいられません。敵は、そんな彼らの対応をあざ笑うかのように、日々最新技術を開発してカード情報を盗み取る手腕を進化させており、極端な話、私たちがカードを持ち歩いているだけで、カードに書き込まれている個人情報を盗み取られる危険性が否定できない時代に突入しているのです。著者が本書において怒りを込めて銀行や警察、政治家の怠慢を次々と責め立てるのは当然のことでありましょう。

 自分の身にもいつ降りかかるかわからないキャッシュカード事件。ようやく銀行も最近は重い腰を上げて、生態認証カードなどを開発するようになってきたけれど、欧米諸国の事件対応に較べるとまったく低レベルのそしりは逃れない。残念ながら現段階では、盗まれたら困る金額の貯金に関しては別口座をつくり、そこにはキャッシュカードを発行しない……この方法しかないようです。鉄人のリモコンがいつ盗まれるかびくびくしながら生活するなんて、精神衛生上あまりによろしくないことですからね。


キャッシュカードがあぶない


nice!(0)  コメント(1)  トラックバック(4) 
共通テーマ:

恐ろしい拷問・処刑の数々 [ノンフィクション]

 子供の頃、東京タワーにある蝋人形館で見た一つのシーンをいまだに忘れることができません。それは、中世ヨーロッパで行われた拷問を再現したコーナーで、人間をまるで鶏の丸焼きのごとくに串刺しにしてつるしたものでした。案内文によると、それは「人類が考え出した最もつらい拷問」とのこと。つまり、人間をいかに長い時間苦しめながら死に至らすという観点から考えると、その拷問(というより処刑に近いけど)が最大の刑罰として中世ヨーロッパでは普及していた……とのことでありました。もう三十年の昔の話なのに、いまだに鮮明に覚えているのは、子供心にその恐ろしさに震え上がったからに違いありません。

 桐生操「人はどこまで残酷になれるのか」(中公新書ラクレ)を読んだ時、まさにこうした子供の頃の記憶が甦ってしましました。もしもみなさん、いま食事中だったらゴメンナサイ。本コラムを読むのは食事後にした方がいいですよ(苦笑)。というのは、本日ご紹介するのが、人間たちが過去に犯してきた(そして今だに続いている)残虐行為、拷問器具の数々を系統的に綴っていった「闇の世界史」とでも呼ぶべきなんとも気味の悪い書物であるためです。

 冒頭に紹介した「串刺し人間」以外にも、人類はこれまで本当に多種多様の拷問を考え出してきました。刺や釘を打ち込んだ「鞭打ち」。妻の不貞を防ぐために考案されたというカギつきの金属パンツ「不貞帯」。檻の中の鉄の重い屋根が何日もかけて徐々に堕ちてきて、最後は囚人を煎餅のように押しつぶしてしまうという「鉄の棺」。仰向けに寝かされた人間に口から大量の水を飲ませて変形・変色させて、文字通りゲロを吐かせる「水責め」。手足をそれぞれ別の馬に引っ張らせて、最後は引き裂いてしまうという公開処刑「四つ裂きの刑」……。どうです、これらを読むだけでなんだか食欲がなくなってきちゃうでしょ?

 そしてまたこれら拷問・処刑の数々を考えたり、実施してきたのは多くが独裁者や暴君、貴族といった恐ろしい人間たちでした。自分を中心に世界が回っていると信じてやまなかった権力者。富と権力を一手に背負い、人民の生殺与奪の権限を握ってしまうと、人間というのはこんなにも恐ろしいことをやってのけるのです。拷問というのはいつの時代でも、世界中いたるところで存在し、そして現在でもいまだに依然として存在し続けています。人間たちの哀しくも恐ろしい性を見極めるためにも、このような闇の歴史はきちんとつたえられるべき内容でありましょう。

 本書では拷問・処刑方法の列挙にとどまらず、惨殺魔と化した権力者列伝、処刑されてきた人たちの歴史、さらには人間とは思えない(思いたくもない)戦慄の殺人鬼たちに至るまで、まさに残虐の数々をこれでもかこれでもかと紹介してくれます。読んでいて目を覆いたくなる記述もたくさんありますが、不穏な世界情勢が続く現在だからこそ、価値のある本とも言えます。「人を痛めつけたい」という残虐な心は、実は一部の異常人格者特有の性格ではなくて、私たち誰もが持っているホモサピエンスの本能でもあるはずなのだから……。


人はどこまで残酷になれるのか


nice!(0)  コメント(1)  トラックバック(1) 
共通テーマ:

痴漢犯人にさせられた男の物語 [ノンフィクション]

 いよいよ日本も本格的に女性専用車両が導入される時代になりました。連休明けから首都圏でも本格的に電鉄各社が朝のラッシュ時に女性専用車両の導入を決めたという昨日のニュースを見て、ほっと一息。感慨にふけった女性たちも多いのではないでしょうか? 左様、それほどまでに昨今の首都圏電車での痴漢被害はひどいらしい。満員電車にかこつけて、うら若き女性達のお体にタッチする(いやいや、それくらいでは痴漢と呼べないね…)などとは、まったく不届き千万。彼女たちの怒りもごもっともでございます。

 しかしちょっと待て。痴漢被害もひどいけど、間違えて痴漢にされてしまった男性たちの悲劇というのも多数存在するんだぞ。鈴木健夫「ぼくは痴漢じゃない!」(新潮文庫)を読むと、一人の女性の「あなた、触ったでしょ!」の一言によって、ごくごくフツーのサラリーマンの人生が怒濤のごとく壊れ果てていく様子が克明に描かれていて恐ろしい気分になってきます。多分、毎日通勤電車に乗っている人なら誰でも起こりうる話であるだけに、人ごととは思えず、読後は思わず身震いすることでしょう。

 事件はある日唐突にやってきます。電車を降りると突然、見知らぬ女性に大声で「痴漢よ!」と叫ばれ、何事かと見つめる周りの冷ややかな目。騒ぎに気付いた駅員に「とりあえず、詳しい話は事務所で」と諭されると、いつの間にか警察がやってきて自分は犯人扱い。否認を続けると、留置場に送り込まれて、ベルトコンベア式に犯人に仕立て上げられていく・・・・。たった一人の痴漢被害者らしき女性の告発によって、目撃者もいない状況の中で、告発を受けた男性陣は絶対的な不利な状況に追い込まれてしまう。なにゆえに「私」が痴漢犯として逮捕されなければならないのか? いくらそう主張しても、現在の法律では痴漢に関しては圧倒的に被害者に有利な状況になっている。極端な話、女性の告発がまるでデタラメでも、叫ばれれば誰でも痴漢犯にされてしまう可能性が大きいというのです。

 鈴木氏が捕まった当時は、痴漢犯罪の罰金刑は五万円でした(現行法では、6か月以下の懲役または50万円以下の罰金)。とりあえず罰金を払ってしまって、やってもいない罪を認めて前科者となり、早急に処理してもらうのか。あるいは鈴木氏のように、断固無実を訴えて戦い抜くか。もしあなたが同じ立場におかれた時には、どんな解決策を選択いたしますか? ちなみに著者の場合には、後者を選択したために無罪を獲得するために二年間の歳月がかかり、その間に会社は強制退社(ほとんど解雇に近い扱い)。それまでの社会的地位や収入は、この冤罪のためにゼロに戻ってしまいました。

 みなさま、本当に通勤電車には気を付けて。本書の後半は、担当弁護士による解説が載っているのですが、もし同じ被害にあった時の対処法として語れることは、「やっていないのなら、やっていないといってください」「事情徴収に応じれば、もうその時点で有罪行きのベルトコンベアに乗ったものと考えられます」「女性があなたが痴漢に間違いないと主張ば、逮捕される確率は高いでしょう」「もちろん起訴されればほとんど有罪になります」というスゴイ内容なのです。痴漢被害に関する、これが日本の法律の現状。一部のスケベなおやじたちのために、多くのまっとうな男性陣はいつでも地獄に突き落とされる危険性と隣り合わせにいるのです。最後に、ひとこと。だからこそ、女性専用車両バンザイ。できるなら、もっと多くの車両が連結されることを祈っております!!


ぼくは痴漢じゃない!—冤罪事件643日の記録


nice!(0)  コメント(5)  トラックバック(1) 
共通テーマ:

審判ほどつらい商売はない? [ノンフィクション]

 何かとお騒がせのプロ野球の判定事件。勝負の一級がアウトかセーフか、外野手が前進してスーパーキャッチした打球がワンバウンドかノーバウンドか、はたまた空高く舞い上がった打球がライトのポールを巻いてホームランなのかファールなのか……一つの判定が勝負の明暗を分けるシーンでは、判定をめぐる疑惑やトラブルが数多く起き、グラウンドでの暴力事件にまで発展することはみなさまもよーくご存じですね。

 まあプロ野球にかかわらず、他の競技でも審判の判定トラブルというのは尽きないわけではありますが、なぜか日本においてはプロ野球のそれが際だって話題に上るように思われます。それは果たして、プロ野球が国民的人気を誇るスポーツであるゆえなのか、それとも特殊な構造的原因によるものなのか。織田淳太郎「審判は見た!」(新潮新書)では、この問題を初めて選手側ではなく審判側から捉えることによってプロ野球における審判論ともいうべきものを提示することに成功しています。

 ジャッジは正しくて当たり前。ひとたび誤審でも起こそうものなら、選手や監督からはどつかれ、熱狂的ファンからは命さえ狙われるという因果な商売。マスコミもしょっちゅう攻撃するスキを探っているし、チームのオーナーからも「使用人」扱いされ、もちろん低賃金。選手達はグランドで派手な暴力事件を起こしても数日間の謹慎処分で終わっても、審判はカッとなってマスクを地面にたたきつけるだけで責任を取らされるという理不尽さ。プロ野球の構造改革が叫ばれて久しいですが、球界を影で支えるこのような人たちを邪険にしているようではその衰退も当然のことではありましょう。

 本書はまた、審判の仕事を通じて、プロ野球の裏面を語った面白い読み物でもあります。「暴動を招いた判定変更─狂気の球場からの審判団大脱出劇」「ルールを知らず、大恥かいた某チーム監督」「反感を買ったオーバーアクション─いじめで辞めた名物審判」「試合の途中で腹痛に─トイレ行きたさにゲームセット」「たった二ヶ月で帰国した3A審判」……等々。審判のまわりには、こんなにもユニークな事件や珍事に満ちあふれていたものなのですね。それにしても、審判ほどつらい商売はない? ホント、同情申し上げます。


審判は見た!


nice!(0)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

鼻で歩く生物がいた?!  [ノンフィクション]

 今日は、ちょっとびっくりするような一冊をご紹介しましょう。H.シュテュンプケ「鼻行類」(平凡社)が、それ。「新しく発見された哺乳類の構造と生活」と題されたこのお堅い動物学の本は、誰もがビックリ仰天するような珍生物についての観察記録であります。本書がドイツで発行されたのが、1957年のこと。日本語訳されたのは、1987年という古い本ではありますが、その内容の衝撃はいまだに色あせることはありません。なにしろ、「まったく新しい哺乳類が20世紀になって発見された。場所は、南海の孤島であるハワイアイ群島。その島では、鼻で歩く一群の哺乳類が独自の進歩を遂げていた・・・・」というのです。世界中の動物学者はもちろんのこと、一般の人たちまでが「どうしていままでこんな珍妙な生き物が発見されなかったのか?」と大騒ぎになったであろうことは想像に難くありません。

 しかし、周りがどう騒ごうとも本書は真面目な動物学の研究書です。総論において作者は「鼻行類は哺乳類の特殊な1目とみなされており、有名な専門家ブロメアンテ・デ・ブルラスがその研究者である。鼻行類という名がまさに示すとおり、その共通の特徴は鼻が特殊な構造をしていることである。鼻は一個のこともあり、多数存在する場合もある。鼻が多数あるというのは、脊椎動物の系列ではほかに例がない・・・・」と、淡々とわが研究の成果を綴っていくのであります。

 異様に肥大した鼻を支点にして、逆立ちをしながらえさを食べるというミミズのような形状をした「ムカシハナアルキ」。鼻がまるでナメクジのように進化(?)し、足ではなくて鼻が移動手段となってしまったため常に逆立ち状態で生活するという「ナメクジハナアルキ」。先端に角のように長く伸びた鼻からでる粘液質の汁(要は、鼻汁だっ)を垂らして、川に生息する水生動物を捕獲するという「ハナススリハナアルキ」。全長約1.5mという巨大な体格で、全身が長毛に覆われた四本の足ならぬ鼻でノッシノッシと逆立ち歩きをしている「マンモスハナアルキ」等々。

 読んでいるうちに、いくらなんでも、シュテュンプケさん、冗談で書いてるんでしょ??と、思わず作者に問いかけたくなることの連続です。ジャック・バルロア「幻の動物たち」(ハヤカワ文庫)じゃあ、あるまいし。日本で言うなら、荒俣宏の著作だよ。確かにテキストも図版もいかにも学術風に記されているけれど、それならきっちり写真を持って万人に説明してみろっ。と、誰もが考えることでありましょう。実は、本書が伝説的な名著と化してしまったわけは、そこにあります。実はですね、この世にも不思議な「鼻行類」が生息していたハワイアイ群島は、本書が発行された1957年に核実験によってすべてが消滅してしまったというのです。動物たちも、研究標本も、なにより研究者(著者)自身も。

 もはや私たちには、この研究書がホンモノなのかパロディーなのか、想像するしかありません。海外ではいまだに動物学者によって、学会でケンケンガクガクの論争が繰り広げられていると聞きます。日本ではキワモノ書として、ほとんど学会では無視され、SFとしてしか認知されていないらしい本書。臨死体験のテーマもそうだけど、どうして日本人はこう極端なのですかね? まあ、真相の追求は海外の学者先生にお任せするとして、私たち素人はだまされたつもりでこの不思議な生物たちの姿を想像してみようではありませんか。未知の生物との出会いというのは、誰にも夢とロマンを感じさせてくれるものなのですから。


鼻行類—新しく発見された哺乳類の構造と生活


nice!(0)  コメント(5)  トラックバック(1) 
共通テーマ:

ほめて、ほめて、ほめまくれ。 [ノンフィクション]

 富山県に、「ほめる指導法」で画期的な成果を上げている公立小学校があるといいます。学校ぐるみで基本マニュアルに添った指導法が実践されていて、とにかくどの教師子供をひたすらほめまくる。たとえば、こんな感じです。教科書を音読させる授業では、「スラスラ読めて、えらいです」「声が揃って、綺麗です」「言葉がはっきりしていて素晴らしい」・・・・・どんな子供に対しても、その子の長所を必ず見いだして声をかけてあげる。「上手いですね」「よくなったよ」「その調子で頑張ろう」・・・・先生のおだてに乗って子供たちはどんどん勉強するようになって、全校の学力がめざましい勢いで上がっていった実績を誇っているらしいのです。

 高取しづか「わかっちゃいるけど、ほめられない!」(宝島社)は、そんな富山市立五福小学校の取り組みを紹介しながら、「ほめる指導法」について考えていく書であります。女子マラソンの高橋尚子選手も、小出監督のほめる指導によってその才能を開花させたことで有名ですね。高橋選手も笑いながら語っていたけれど、「君ならできる」「世界一になれる」毎日毎日、一日中「君には才能がある」と言われ続ければ、本当に自分でもそんな気になってくる・・・・・こんな気持ちは、なんとなくわかる気がします。

 そう。だれでも人に褒められるのが嫌いな人はいないのです。大人だってそうなのだから、子供ならなおさらですね。親というのはどうしても子供の足りなさばかりに目がいって、あれこれうるさい小言ばかりを口にしがちであるけれど、発想をまったく変えて子供の長所ばかりを褒めるようにしてみようと、本書では提案しています。「ほめてばかりで精神が鍛錬されないのでは?」「いい気になって、おごり高ぶった人間に育つのでは?」などという心配をされる方、さにあらず。褒められることによって前頭前野が活性化され、本来持っている能力が発揮されるようになることは現代医学によってちゃんと科学的にも証明されているのですよ。

 ほめてほめて、ほめまくれ。そういえば、アートの世界でも優秀な児童の絵画指導者たちは、みんな子供たちの絵画を褒めるのが上手な人たちです。どんなぐちゃぐちゃの絵を描こうが、「この線は宇宙的で、素晴らしい」「雄大な力強さを感じるよ」などとほめてしまう。こうやっておだてられた(まったく画才など無いと思われていた)わんぱく坊主たちの描いた作品は、生命力にあふれた素晴らしいアートを描いてしまうことがしばしばです。大切なのは、どうやって褒めるかという技術論ではなく、どんな褒め言葉のバリエーションを持っているか、というのが著者の考え方。子供たちを幸せにする方法は、実はこんなにも簡単なことなのでありました。「わかっているんだけど、それがなかなかねねえ」と苦笑いするお母さん方、だまされたと思って試してみてはいかがでしょうか。


nice!(0)  コメント(3)  トラックバック(1) 
共通テーマ:

図書館のあり方を、ニューヨークの実情に見る。  [ノンフィクション]

 田舎に住んでいると何が不便だといって、図書館が充実していないことではないでしょうか。以前住んでいた埼玉県のW市は、小さな街でしたけれど行政サービスが充実していて、図書館も住民にとっては最大限に活用できる憩いの場でありました。週刊誌や月刊誌はほとんど最新号が読み放題だし、新刊書籍も随時入荷する。本屋にとっては商売敵とも言える存在かもしれませんが、多くの主婦や子供たちが日常的に集まれる空間となっていたのです。それにくらべて現在のわが街の図書館は・・・・。古くさい建物、蔵書点数の少なさ、新刊書籍も雑誌もほとんど見あたらず、図書館にかける自治体の予算規模が明らかに違う。これが「文化」の差を産み出すのではないかと、図書館に行く度にため息をついてしまう現在です。

 しかしであります。菅谷明子「未来をつくる図書館」(岩波新書)を読むと、私がスゴイと思っていたW市の図書館でさえも、所詮は無料貸本屋の域を出ないものに過ぎないことがわかり、愕然とさせられました。本書は、世界でも最先端の図書館サービスを実施するニューヨークの図書館についてその具体的な取り組みをレポートし、図書館のあるべき姿について新しい視点を与えてくれます。帯にも「えっ、これが図書館?」というコピーが踊っておりますが、まったく目からウロコとは、このことなのか。図書館後進国に住む私たちにとっては正直なところ想像もできない内容です。図書館が未来をつくるという本書のタイトル自体、「??」と考えてしまう人が多いのが実情ではないでしょうか。

 それでは、ニューヨークの図書館サービスのいくつかをご覧いただきましょう。市民に新しいビジネスを起こしてもらうことを目的として、そのためのあらゆる情報を無料提供するという科学産業ビジネス図書館。芸術を支え、育てることを目的として、あらゆるジャンルの舞台に関する情報を、本だけでなく、ビデオ、録音テープ、シナリオ、ポスター、プログラム、写真に到るまで所蔵した舞台芸術図書館。マスメディアの映画はもちろん、独立系の映像作品、実験作品ドキュメンタリーまで「映像」の研究に関わる人には欠かせない情報源となっているドネル図書館のメディアセンター等々・・・・。

 どの図書館もNPOによって運営されているのが最大の特色で、公的資金以外にも民間からの多額の寄付金によって、その運営資金が賄われています。図書館におけるIT化など当たり前。それぞれの図書館には数十台のパソコンが設置されていて、館内の図書に関するデータベースの公開はもちろんのこと、インターネット(メールも含める)の利用、図書館が契約するマスコミ各社の記事データベースなどもすべて無料で公開されていると言うのです。図書館とは市民が中心の情報社会の源であり、「知的市民を育成することが社会を活性化させる」という信念こそが、このような図書館を成立させているわけなのでしょう。「未来をつくる図書館」という本書のタイトルが、読後は素晴らしい輝きを持ったコトバとして感じとれる内容を持った本でありました。


未来をつくる図書館—ニューヨークからの報告—


nice!(1)  コメント(3)  トラックバック(2) 
共通テーマ:

かくも不思議な脳の謎を知る。 [ノンフィクション]

 幻覚痛とよばれる不思議な症状がある。切断したはずの手足の一部が痛んで、いつまでも患者を苦しめるという症状である。本書「脳のなかの幽霊」(角川書店)の著者であるV.S. ラマチャンドラン博士は、こうした幻肢の特徴と治療についてきわめて独創的な業績を上げた当代きっての神経科学者である。現実にはない手足に痛みを感じるなどという非科学的な症状について、これまでの学者は「不思議なことがある」といった事例報告で終わらせてしまうのが通例であった。本書によって初めて一般の人にもわかりやすく、幻肢がおきる科学的な説明を加えてくれた。詳しくは一読願いしかないが、脳の不思議な神秘に触れて読後は少し混乱してしまうかもしれない。

 しかしこの世には、不思議な症状がゴマンとあるものである。自分の体の一部を他人の者だと主張する患者。両親を本人と認めず、偽物だと真面目な顔で主張する青年。半身麻痺になったことを自分では認識できず、動かぬ手の動作をいつまでも主張続ける疾病否認の女性。自身の左半身だけが認識できなくなってしまったという半側無視の母親。なぜこんな摩訶不思議な症状が起こってしまうのだろうか。V.S. ラマチャンドラン博士は、ひとつひとつの事例についてこれまでの常識を覆すアプローチをこころみ、患者を狂気や怪奇の世界から連れ戻してきた。患者たちの訴えは根拠のない与太話などでは決してなく、無意識が構築した緊急の防衛手段であり、すべて脳の構造による説明がつけられるものばかりであるという。

 具体的な事例として自分の身体イメージがいかにはかなく崩れ落ちてしまうものかという実験が示されていて、これがまたすこぶる面白い。著者のいうとおりの手品箱のようなミラーボックスを作り、そこに自分の手を入れてボックスの中の鏡をのぞき込むだけで、私たちも簡単に自分の身体イメージを崩壊させ、わけがわからない混乱状況を作り出すことができるのである。自分の身体とは、そもそも一体何なのか? 思わず、こんなことを真剣に考えてしまう。その意味で、本書は最先端の神経医学の解説書であると同時に、私たちの存在そのものを問いかける哲学書にもなっていると言える。実に骨太の読み応えある書であります。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(2) 
共通テーマ:

贋札の歴史を考える。 [ノンフィクション]

 贋札。なんといいますか、ちょっとダークな、そして魅惑的なコトバの響きですね。贋札づくりに没頭する職人とか、地下の贋札工房で超精巧な世界の贋札をつくる集団だとか、想像するだけでなんだかドキドキしてきそう。しかし贋札とは、資本主義社会の根本を壊すという意味で国家に対する反逆であり、その罪は非常に重いということをご存じでしょうか? 

 世界最古の贋札といわれるのは西暦1068年の南宋時代。「会子」と呼ばれる紙幣の偽造紙幣がそれで、あまりに偽造する者が絶えなかったため、政府は偽造を阻止するための法律を制定。紙幣自体に偽造に関する罪と、これを防止する者への賞が明記されるようになりました。この罪は年々どんどん重くなり、偽造する者はもちろん流刑。隣人が偽造犯であることを隠していた場合にもこれを罰する。さらに刑罰はエスカレートして、最終的には偽造者は死刑。密告者には賞金と、犯人の財産をプレゼント(!?)。希望すれば任官もさせてあげるというおまけ付きです。

 歴史的に見ても、紙幣の偽造というのは南宋時代と変わらない対応が世界中でなされてきました。植村竣「贋札の世界史」(生活人新書)を読むと、このような贋札に関する世界のエピソードが満載で、楽しめます。楽しめると同時に、19世紀初頭に至ってもイングランドにおいて偽造紙幣を持参していた者(仮にだまされて人からつかまされた場合でも)が死刑になっていたという事実には、驚くばかり。贋札づくりの断絶はそれほどまでに国家にとっては重大事項であったということなのでしょう。

 しかしいざ戦争が始まると、今度は国家あげて敵国の経済を攪乱するために贋札づくりに邁進するというのですから、皮肉な話です。ナポレオン群におけるオーストリア紙幣偽造事件。ナチスドイツにおける英ポンド偽造事件。独立戦争土におけるイギリス軍による新大陸紙幣偽造資源。日本軍だって中国紙幣を偽造していたようですし、アメリカ軍は敵国紙幣を精巧に複写した贋札スタイルの宣伝ビラを現在も戦争になるとばらまいているのです。国家がおこなう贋札づくりとなると、もはやホンモノ顔負けの精巧なものになるのは当然で、これを突き詰めると「紙幣って一体なんなのだ?」という素朴な疑問にぶつかるのは当然といえるでしょう。

 それにしても日本って国は、まだまだ平和な国なのですね。外国人グループによる贋札事件が起こっただけで、大ニュースとなるくらいですから。それぼとに、日常の生活の中で贋札をつかまされることは稀ですモンね。しかし本書の読後は、思わず自分の財布のお札をしげしげと眺めてしまう。そんな不思議な気分にさせてくれる本でありました。


nice!(1)  コメント(43)  トラックバック(2) 
共通テーマ:
- | 次の10件 ノンフィクション ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。

×

この広告は1年以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。